ども、イマシタです。
2014年から韓国・釜山との文化交流をしています。主に、演劇で。
K-POPに人気グループBTSの人気が爆発的ですが、僕が交流を始めたころは少女時代でした。
2014年以前は、それほど韓国という国の文化には興味ありませんでした。
韓流ドラマもさほど見ていなかったし。
でも、交流を始めてからがぜん興味を持ち始めました。
今日は、なんで興味を持ち始め、韓国との交流を始めたのか。
そんな話をしていきたいと思います。
- K-POP大好き
- 韓国に興味がある!
- 韓国との文化交流をしたい!
- 韓国と文化共存をしたい!
なんて考えてる方には参考になるかもしれません。
※文化共存とは?
「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」
総務省:多文化共生の推進に関する研究会報告書より
ここではただ交流をして情報交換するだけではなく、演劇を通してお互い協力して作品を創作し、それを上演することの意味で使ってます。
韓国との文化交流は簡単にできるのか?
結論から言うと、比較的簡単にできると思います。
今はネット上にはたくさんの交流できる場所もありますし、交流する手段も書いてあります。
でも、ただやみくもに交流したい交流したいと言っててもできません。
- 異文化のどんな人たちと
- どんな風に交流して
- どんなことをやりたいのか?
と自分が何をしたいのか明確にして、そこにアンテナを張ることによっていろんな情報が入ってきます。
今回僕が紹介するのはその中でもニッチな交流の仕方なんですが、ニッチな交流が5年以上続いてるわけですから、大きな輪の中にいればいるほど、その交流の情報は比較的手に入りやすいと思います。
韓国との文化交流をする前の状態。
2002年のワールドカップ日韓共同開催以降、韓国との文化交流はより盛んになってきました。
それが2010年代になると、少しづつ陰りを見せ始めます。政治的要因が大きいとは思いますが。
僕はというと2012年から2013年にかけて九州ローカルで製作されたドラマに5本出演しました。
これは福岡というローカルで異なった局(NHK福岡とNHK大分は同じと言えば同じですが)が制作したドラマに一年間で5本出演したという事です。
メチャクチャ売れっ子じゃないですか?
だって、ドラマを制作する分母は大都市に比べれば、てか、比べ物にならないくらい少ないわけですから、その分母の中の5本というのはものすごいことなんです。
僕がローカルで役者をし続けていた目標が、一つ実現できた年でした。
しかし現状は何も変わらなかった
皆さん、目標って何のために建てます?
1 そこに行き着くように、またそこから外れないように目印とするもの。「島を目標にして東へ進む」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%9B%AE%E6%A8%99/ より引用
2 射撃・攻撃などの対象。まと。「砲撃の目標になる」
3 行動を進めるにあたって、実現・達成をめざす水準。「目標を達成する」「月産五千台を目標とする」「目標額」
そのものにむかつて突き進むため。
その目標が達成したら何らかの変化がある、今よりいい状態にあるって思いますよね?
何にも変わらなかった。
ただの「出来事」でしかなかった。
目標にしていたものが、ただの出来事でしかなかったわけですよ。
もう、ちょっと訳が分からなくなりましたね。
この時、
このままここで役者をし続けていくことに意味があるのか?
と思い悩んでいた時期でした。
韓国の表現者との出会い
それはあるとき偶然に始まりました。
あ、ものすごくミーハーな事言えば、そのころ日本では少女時代が大流行で、僕もハマった口なんです。
そのころの口癖は
あ~少女時代のスヨンと仕事して~
でした。
今のスヨン。
なので、韓国との交流に興味がなかったかといえば、そうではありません。
しかし実際無理でしょうよ。
で、話は戻って、ある日知り合いから一本の電話がありました。
その知り合いの知り合いの知り合いが韓国の方で、福岡の演劇人と話したいとの意向でした。
なんだかよくわかんないけど、ちょっと興味範囲で話してみることに。
待ち合わせの場所に行くと知り合いの知り合いの日本人女性と男性二人。この男性2人が韓国・釜山の方なんですが。
その日本人の女性が韓国語を話せたので通訳になってもらい、話を聞くことになりました。
韓国・釜山にあるアーティスト支援団体「トタトガ」
話を聞いてみると、芸術分野で日本・福岡と交流をしているが、演劇の交流を始めてみたい。ついては、釜山に滞在して芝居を作ってみないか?
という話でした。
え?
ええええええええっ?
なんすか?その話?
てか、僕あなたたちの事よく知らないんですけど?
あなたたちも僕の事よく知らないでしょうよ?
まず、あなたたちは誰なのさ?
みたいな感じだったんです。
で、よくよく聞いてみると釜山の芸術支援団体「トタトガ」のセンター長と、教会で芸術関係の仕事をしている方たちでした。
で、この「トタトガ」という団体なんですが、釜山広域市の「中区」中央洞、釜山市がバックアップしているアーティスト支援団体。
この中区というのは釜山港からほど近く元々「釜山市役所」があった場所だけど、西暦2000年くらいにに市役所が開発地区(蓮堤区(ヨンジェグ)蓮山5洞(ヨンサンオードン))に移転したため、周りの金融会社や商業施設も移転し、20万人ほどいた住民が5万人に減少したんだそう。
そのため空き店舗が増加。釜山市から、「文化・芸術」の力で地域を再生・活性化できないかという提案を受けて発足。
以降、若いアーティストたちへの自立支援や、芸術祭の開催など国内外を問わず幅広く活動している。
福岡とのつながりも深く、「WATAGATA Arts Festival」などを通じて芸術家の交流を行っている。
WATAGATA(ワッタガッタ。韓国語で行ったり来たりの意味なんだって)では主に美術・芸術・ダンス関係のつながりで、演劇関係ともつながりたいといったようなところ。
まあ、話は大体わかったけど、どうすればいいの?
と聞いてみると、一か月くらい滞在して脚本を書き稽古して芝居を作ってほしい、と。
んで、いつ来れる?来月?再来月?みたいな感じ。
韓国には、「やると決めたら、そのことは8割は成功している」みたいな諺か格言みたいのがあるらしく、とにかく前に進もう進もうとする。
前に書いた
日本人が表現下手なことについて考えた
にも書いてある通り、慮って計画して石橋を叩いて叩いて叩き割るくらいの僕でしたから
いったん引き取らせてください!
というのがやっとでした。
あれよあれよという間に韓国・釜山へ
結局何回かのやり取りでざっくりと公演をすることになりました。
ここまでに決まっていること
- 釜山に延べ1か月程度滞在して作品を書く
- 釜山の俳優を最低1人は起用する
- 恵子は福岡でする
- 福岡と釜山で上演する
という事だけでした。
もう、大枠の大枠。
これだけでとりあえず出発したんで、後で大赤字を経験するわけですが、その失敗があったからこそ、今の釜山との交流・共存につながっているんで無駄なことではなかったと、今は、思えます。
その当時はそう思えるほど心に余裕がなかったんじゃ…
最初の旅はカメリアで
福岡から釜山までの距離はざっと200キロ。同じ九州の鹿児島よりも近い距離。
交流を初めて気づいたんですが、こんな近い距離に異文化が存在するなんて、本当に福岡は恵まれている土地。
活用しない手はありません。
福岡から釜山へ行く手段は空路か海路。海路にはビートルなんかのジェットホイルかフェリーがあります。
記念すべき最初の釜山へは海路・フェリー「カメリア」を選びました。
理由は、安いから!
だってどうなるかわからないものにいきなり予算使うの怖いじゃないですか?
結果、この経験が脚本づくりに役立ったのでよしとします。
行きは5時間半。帰りは12時間。
この時、帰りの事は何も考えてませんでした。
この時の道中の事はいつか記事にしたいと思います。
5時間半の旅も、初めての釜山への期待や、よく晴れた天気の中優雅に船旅してる感が相まって、さほど長くは感じませんでした。
釜山での歓待
最初は1週間の滞在でした。
初日は歓迎会。
トタトガの中で活動している演出家・俳優・映画監督などなど10名くらいで歓迎会を開いてくれました。
トタトガのセンター長の奥様が日本語が流暢で、その肩を通じて話せたので大変助かりました。
夜も更けてゆき、だいぶお酒が回ってきて、そのころの悩んでいた「目標がなくなって、このままここで役者をし続けていくことに意味があるのか?」みたいなことを話し出しました。
その時、トタトガのセンター長が
イマシタ!お前は何も間違っちゃいない。それは通過点でしかない!自分の信じた道を進み続けろ!
と言ってくれたんです。
日本ではだれも言ってくれなかった言葉を。
ほんの短い間の付き合いでしかない僕に対して。
文字にすれば無責任な言葉に見えますが、その時のセンター長の目線、真剣なまなざし、自信に満ちた音声が、本当に僕の事を思っていってくれた言葉というのが伝わりました。
この時、もし、この韓国・釜山との交流がなく、センター長に出会ってなければ、もしかしたら、今の僕はいないかもしれません。それくらい役者でいることを悩んでいましたから。
僕は、この韓国・釜山との交流を続けていこうと思いました。
次の日からは釜山の取材を始めました。
センター長にいろんなところに連れて行ってもらいました。
こうして1週間はあっという間に過ぎました。
釜山で初めて食べた韓国料理は「プデチゲ」
部隊鍋と書くそうです。
2回目以降の釜山
2回目からはビートルを使いました。
釜山まで約3時間!
カメリアの半分ですね。
今はもうこのサービスはないんですが、2014年には半年間乗り放題で5万円というプランがあったんです。
この先何回かは釜山へ通うことになるという事で、このプランを買いました。
お芝居の経費で落ちますしね。
2回目以降は出演者の選定と台本の執筆作業に取り掛かりました。
この後、期間はまちまちですが5回にわたり釜山に滞在し、出演女優も決まり、無事「晴レタラ、見エル。」という作品が出来上がりました
子のフライヤーの絵はそのころトタトガにいらしたキム・ボムス氏の作品です。
釜山滞在中の宿泊
この作品作りは「トタトガ」との提携事業だったのでトタトガ所有のレジデンス施設を無料で使わせていただきました。
ちょうどトタトガが長期滞在の創作用にレジデンス施設の運用に乗り出していたことも幸いしました。
宿泊費がかからなかったという事も、釜山との文化交流・共存成功の大きな要因といえます。
まあ、釜山のドミトリーは1500円~2000円で見つけることも可能ですし、仲良くなれば稽古場や友達のうちに泊まることも可能です。
反対に、日本に呼ぶ場合がこの宿泊という事は大きな問題になりますけどね。
HANARO projectへの参加
このころ福岡では、同時多発的に韓国、主に釜山との演劇による文化交流がいくつかおきてました。
その中の一つ「HANARO project」に2015年の福岡側の演出に選ばれました。
HANARO projectとは演劇という総合芸術の作品創作を通して日本・福岡と韓国・釜山の文化交流・文化共存を図る事業で2014年から始まりました。
2015年は福岡側の演出として参加しましたが、2016年からは運営の方へもまわり2019年に行った「HANARO WEEK~韓流3つのワークショップ~」では企画・運営を行いました。
この間、日本と韓国の文化交流・文化共存に向けてのシンポジウムにパネラーとして呼ばれたり、釜山との交流を新聞記事にしていただいたりしてきました。
ほんの数年前までは韓国・釜山にはあまり興味がなかった人間が、たった一つの出会いから、ここまで深く文化交流・共存にかかわるようになったのです。
まとめという名の韓国・釜山との文化交流・文化共存の今後
22021年現在、まだ新型コロナウイルスによって韓国・釜山へはいけません。
この間ZOOMなどで情報交換をし、近い将来、自由に行き来ができるようになった暁にはまた、韓国・釜山との文化交流・文化共存は再開します!
また、この夏、今までの韓国との文化交流・文化共存の力を結集させて「水の駅」という作品が福岡で上演されます。
これは本来なら2021年にポーランドに招聘が決まっていた作品でしたが、今年度の開催はなくなりました。しかし、次年度の開催に向けての、福岡公演です。
これからも、ずっと続けていこうと考えてます。
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